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サークル紹介

サークル紹介

 

とあるドラマの名セリフ

「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだッ!!」

 

これを仏教的に表現するとどうなるのでしょうか?

 

「事件は現場で起きてるんじゃない!心で起きてるんだッ!!」

 

事件の起きた現場は、そこにいる人々の(口や体の)行動によって作られます。

口で酷いことを言ったり、体で銃を乱射したり・・・

 

仏教では、心と、口と、体から私たちを評価します。中でも重視するのは「心」です。

 

心で思ったことが、体や口に出れば、私たちの目に見える形で善いこと、悪いことが現れます。

 

酔っぱらって、覚えていませんということをいう人がありますが、

こうしてやろうと、その時は確かに心で思ったのですが、

実際にやったことも覚えていなければ、

思ったことも覚えていないので、そのような発言となるのでしょう。

 

また、幸せ(安心・満足)だなぁと感謝できるのも、

不幸(不安・不満)だなぁと悲しんだり、嘆いたりするのも

心の中の出来事でしょう。

 

自分でも忘れてしまい、知り得ない自分の心を明らかにして、

心からの幸せ(安心・満足)を与えられるのが、仏教の教えです。

 

よもすがら、仏の道を求れば、

わがこころにぞ、たずね入りぬる  (源信僧都)

このサークルでは、

カフェでの交流勉強会を中心に

仏教専門の講師の方の、法話や講座への参加、

また、ライングループでの仏教に関する小話の配信などを行っております。

 

Photo studio

写真色々
ココレポ

​ココレポ(心のレポート)

​人間の実相
譬えの絵
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お釈迦さまの譬え話

 

人間の実相とは

 

 ある日、お釈迦さまのご法話に、勝光王という王様が参詣しました。初めて仏法を聞く勝光王に、釈尊は、人間とはどんなものか、次のような譬えで教えられています。

 

 それは幾億年という昔、一人の旅人が果てしない昿野をトボトボと歩いていた。木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れである。

 

 ふと旅人は、道に散らばる白い物に気がついた。「何だろう」と一つ拾い上げて驚いた。なんと人間の白骨ではないか。どうしてこんな所に白骨が散らばっているのか。旅人は考え込み、一歩も進めなくなった。

 すると、前方から異様なうなり声と足音が聞こえてきた。闇を透かして見ると、飢えに狂った大きな虎がまっしぐらに突進してくるではないか。旅人は瞬時に白骨の意味を知った。ここを通った旅人たちが、あの虎に食われたに違いない。自分にも同じ危機が迫っている。旅人は無我夢中で、今来た道を引き返したのである。

 

 だが、恐ろしい息遣いは、どんどん迫ってくる。どこで道を間違えたのか、断崖絶壁に出てしまった。そこに松の木が生えていたが、登っても虎からは逃れられない。絶望しかけた時、木の根元から、藤蔓が垂れ下がっているのを発見。すぐさま、その藤蔓を伝ってズルズルと下りたのである。

 

 九死に一生を得た旅人が見上げると、虎が断崖に立ち、無念そうにほえている。「この藤蔓のおかげで助かった」と旅人が足下を見た時である。思わず「あっ」と叫んだ。底の知れない深海が広がっている。しかも波間から、青と赤と黒の3匹の毒龍が真っ赤な口を開け、自分が落ちるのを待ち構えているのである。あまりの恐怖に身震いした。

 

 しかし、人間の感情は続かない。旅人は空腹を覚え、周囲に食べ物を探して眺め回した。

 その時である。最も恐ろしい光景を見たのである。いつの間に現れたのか、白と黒のネズミが、命の藤蔓を、ガリガリと交互にかじっているではないか。旅人は青ざめた。懸命に藤蔓を揺さぶるが、ネズミは逃げるどころか、同じペースでかじり続けている。

 

 やがて、旅人は、ポタリポタリと上から落ちてくるものに気がついた。藤蔓の元にある蜂の巣から、五滴の甘い蜂蜜が滴り落ちてきたのである。その蜜を口にした瞬間、虎のことも、龍のことも、ネズミのことも忘れてしまった。蜂蜜に心を奪われ、蜂蜜のことしか考えられなくなったのである。

 

 釈尊がここまで語られると、勝光王は立ち上がり、「世尊、もうこれ以上、聞いておれません」と叫びました。「何と愚かな旅人でしょう。そんな危ない所にいながら、なぜ蜂蜜のことしか考えないのでしょうか」

 「王よ、実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ」

 「えっ!」

 「いや、そなただけではない。すべての人間が、この旅人なのだ」

 

 この譬え話で、お釈迦さまは、人間の相をどのように明らかにされているのでしょう。

旅人

 

「旅人」とは、「すべての人」を例えています。

 

「旅人」とは、すべての人間のことであり、「私」のことです。

 

 昔から「人生は旅」といわれます。美空ひばりも、ヒット曲『川の流れのように』で「生きることは旅すること」(作詞:秋元康)と歌いました。

 

 私たちは、昨日から今日、今日から明日へ「時間の旅」をしているのです。では、どこから来て、どこへ行くのでしょう。旅人ならば「行き先」がハッキリしていますが、私たちは「人生の目的」を知っているでしょうか。

 釈迦は、人生の目的を知る大切さを教えるために、私たちを「旅人」に譬えられたのです。

旅人
秋の夕暮れ

秋の夕暮れ

 

「秋の夕暮れ」とは、「人生の寂しさ」を譬えられたものです。春夏秋冬の中で、最も寂しい季節が「秋」ではないでしょうか。

 

 なぜ寂しいのか。

 

 その理由をお釈迦さまは「独生独死 独去独来(独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る)」と仰せです。

 

 この世に独りで生まれてきたのだから、死んでいく時も独り。最初から最後まで人生は独りぼっちの旅なのです。親子や夫婦、友達など「肉体の連れ」はあっても、「魂の連れ」がありません。

 

 本当に分かり合える人がいないから、大勢の人に囲まれていても、心はいつも寂しさに震えています。

白骨

白骨

 

「白骨」は「他人の死」を表しています。「白骨を発見して驚いた」とは、他人の死を見たり聞いたりした時の衝撃を譬えられています。

 

「死」と聞くだけで、ドキッとする。それほど「死」は、私たちにとって驚きなのです。  情報があふれる今日、テレビや新聞、インターネットから、事故や殺人、災害など、「他人の死」の知らせが、どんどん飛び込んできます。

 

 しかし、遠い国で「何百人亡くなった」と聞いた時よりも、身近な一人が亡くなったほうが驚きは激しいでしょう。本当は、無数の白骨の散らばる野原を、私たちは歩いているのです。

 

 獰猛な「虎」に譬えられたのは、「無常 (自分の死)」です。私たち一人一人の背後に、この猛虎が一頭ずつ、迫っています。虎から必死に逃げるのは、少しでも死期を延ばそうと努力している姿です。

 

テレビ番組で「脳梗塞予防の食べ物はこれ」と聞くと、すぐスーパーで買い求めるのも、定期健診で「肺に影があります」と告げられショックを受けて「どうすればいいでしょう」と医師に懇願するのも、何とか虎から逃げようとしている姿です。

 

 しかし、いくら逃げても、断崖に追い詰められます。そこで旅人は松の木を見つけました。「松の木」は、私たちが常日頃から頼りにしている、家族や健康、お金や財産、能力、社会的な地位などを譬えられています。いずれも生きていくには大事なものですが、死の不安の解決には間に合いません。旅人が「松の木に登っても、虎からは逃れられない」と考えたのは、それを表しています。

藤蔓とネズミ

藤蔓とネズミ

 

 旅人が、しがみついている細い「藤蔓」は、人間の寿命を表しています。

 

 医学が進歩し、日本では男女ともに平均寿命は80歳を超えています。しかし、樹齢数千年という大木や、50億年の地球と比べたら、「人生100年時代」といっても、あっという間です。

 

 年を重ねるほど、時の経過は速く感じられるもの。1週間、1カ月、1年が、瞬く間に過ぎていきます。

 

 その命の藤蔓をかじっているのが2匹のネズミです。「白のネズミ」は昼を、「黒のネズミ」は夜を譬えられています。

 

 盆も正月も休みなく、ネズミは規則正しく交互にかじり続けています。やがて、どちらかのネズミにかみ切られる時が必ず来ます。昼に亡くなる人は白のネズミに、夜に息絶えれば黒のネズミにかみ切られたということです。

 

 そして、藤蔓が切れると同時に、旅人は底知れぬ深海へ落ちていきます。

 

 死ぬことを「旅立つ」といわれますが、一体どこへ旅立つのか。行き先が分からぬ、真っ暗がりの一大事を「深海」に譬えられています。

三匹の毒龍

三匹の毒龍

 

「三匹の毒龍」は、欲、怒り、愚痴(妬みそねみ恨み)の「三毒の煩悩」を譬えられています。

 

「青い龍」は底の知れない欲の心を表しています。

 

 お金が欲しい、家が欲しい、車が欲しい、名声が欲しい、恋人が欲しい、「もっともっと」という限りない欲を満たすために、どんな恐ろしいことでも考えます。

 

 遺産相続で、それまで仲のよかった兄弟や親戚同士、骨肉相食む争いが起きるのは、欲の心が引き起こす惨劇です。

 

 その欲が妨げられると出てくるのが「怒り」の心で、「赤い龍」で表されています。ひとたび怒りの炎が燃え上がると、 「後は野となれ山となれ」とヤケになり、大事に築いてきた地位や人間関係など全て焼き尽くしてしまうこともあります。

 

 3番目の愚痴は、「黒い龍」に譬えられています。相手の才能や美貌、財力や権力を妬み、逆に不幸や災難を喜ぶ、醜い心です。

 これらの煩悩で悪を造り、自業自得で、苦しみの世界へ入っていくのが私たちの実相なのです。

五滴の蜂蜜

五滴のハチミツ

 

「五滴の蜂蜜」とは「五欲(食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲)」を表しています。

 

「食欲」とは、食べたい飲みたいという心で、「食べるのだけが楽しみだ」という人もあるほどです。病気で、好きなものを飲食できなくなると、とてもつらく感じるのは、それだけ食欲が強いからでしょう。

 

「財欲」とは、「儲けたい」 「損したくない」という心です。「1円でも安く卵を買おう」と真剣にチラシを見比べるのも、ネットで「最安値の店は?」と入念に調べるのも、この欲に動かされている姿です。

 

「色欲」とは、好みの男性や女性を求める心です。いつの時代、どこの国でも、男女のスキャンダルは尽きません。

 

「名誉欲」とは、バカにされたくない、認めてほしい、褒めてもらいたいという心です。 「偉大な業績を残したい」と思うのも、ロケットで月に行こうとするのも、あえて危険な登山に挑戦するのも、「あの人、すごいね」と言われたい、名誉欲に動かされているといえるでしょう。

「睡眠欲」とは、いつまでも寝ていたい、楽したい心です。  これらの蜂蜜を、いかに豊富に提供するか。そこに一生懸命なのが、政治、経済、科学、医学、スポーツ、芸術など人間すべての営みです。

 

 しかし上には虎、下には毒龍、そして、いつ切れるとも知れぬ藤蔓にすがり、絶体絶命のピンチにありながら、蜂蜜のことしか考えていないのは、「おかしなこと」ではないでしょうか。

終活について

​終活について

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奇妙なココロ

私たちは奇妙な心を持っています。

それは、

「生まれたからには必ず死なねばならない」

ということを認めているのに

「永遠に生きていられる」

と思っている心です。

 

「必ず死ぬ」=「永遠に生きる」

 

この方程式は果たして正しいでしょうか?

 

人生が100年時代になったといっても、

200才の方にお目にかかったことのある人は皆無でしょう。

これは人は「必ず死ぬ」という事です。

こんなことは、小学生でも知っています。

 

さて、

「永遠に生きていられる」という心とは

何でしょうか?

質問しにくいことですが、

「あなたは明日死ぬと思いますか?」

とお尋ねしたとしましょう。

どう答えられるでしょうか?

「さすがに明日死ぬことはないでしょう」

とほとんどの人が答えられると思います。

実際にそう思っているからです。

もし、明日死ぬと思っていたら、明日の予定も立てられません。

明日死なないという心は、

明日になればまた、明日死なないという心となりますから、

永遠に生きておれるという心です。

では正しいのはどちらでしょう。

奇妙なココロ

レオパレス施工不良問題

 

幸福の福という字は、

 

衣・・・・ころもへん

食・・・・右下の田の字

住・・・・田の字の上の一と口で家を表す。

で成り立っているといわれています。

 

今回のレオパレスの施工不良では、

我々の生活で大切な、衣食住の

「住」の部分に問題が起きました。

 

衣食住の一角が崩れたと同時に、人は不幸になり、

大問題となります。

 

コンビニチェーンや、飲食店などのいわゆるバイトテロの問題が

取りざたされているのも、

衣食住の「食」の問題だからでありましょう。

 

「衣」の問題はZOZOの前澤さんがどうしたとか、

それほど大きく、生活に直結している問題はないように思われますが、

そのうち、健康上よくない化学繊維の問題などが取り上げられるように

なるかもしれません。

 

そういった「衣」の問題も、

我々の健康・生命に直結するとなったら、

ニュースで取り上げられる大問題となるのでしょう。

 

衣食住の一角が崩れると途端に不安になるのが我々の生命です。

 

しかし、衣食住を不足なく満たしても、やがて失っていく生命ですが、

その命にはどんな価値があるのでしょう。

それを教えられたのが、お釈迦様の説かれた仏教です。

レオパレス問題

80%と100%

 

30年以内に80パーセントの確率で起こるという不安

100年以内には100パーセントの確率で起こるという不安

 

通常なら、100パーセントの不安の方をより問題にすると思うが

確率が高い方には目をつむる傾向があるようだ。

 

「われわれは断崖が見えないように、

何か目かくしをして平気でそのなかへ飛び込む」

(パスカル)

80%と100%
安楽死と冥福

安楽死と冥福

 

冥福をお祈りします。

冥福とは、冥土(死んだ後の世界)の幸福ということ。

 

救命中止、透析中止など、尊厳死、安楽死の問題が最近取りざたされているが、

安楽死とは、死の瞬間まで、できるだけ肉体的苦痛を与えないようにすることであって、

死んだ後の面倒まではみてはくれない。

 

死んだ後の事なんかわからない。

戻って来た者もいない。

 

しかし、

人が死んだ時に、赤飯炊いて喜ぶ人は皆無であり、

皆、神妙な面持ちで、「御冥福をお祈りいたします」という。

 

この世には色々な苦しみ悩みがあるが、

その苦悩にさいなまれている私たちでさえ、死者の冥福を祈るのだから、

冥土とは、この世よりひどい所なのだろうと推測される。

 

自分の発した言葉の意味を、少しだけでも考えてみれば、

そんな酷いところ(冥土)へ一日一日、刻一刻と向かっている人生は、

どんなに明るくしようとしても一時的なことで、

冥(くらい)ものになるのは当然と知らされる。

 

遅かれ早かれ、自分も、

思うとか思わないとか、考えるとか考えないに関わらず

100%確実に、

冥福を祈られる身になることを自覚しておく必要があろう。

 

元旦や 冥土の道の 一里塚

 めでたくもあり めでたくもなし (一休)

進撃の巨人に学ぶ第一回壁外調査

進撃の巨人のセリフに学んでみた
第一回壁外調査

エレンのセリフ

「一生壁の中から出られなくても
メシ食って寝てりゃ生きていけるよ・・・
でも・・・それじゃ・・・
まるで
家畜じゃないか・・・」

一休の歌

「人生は食て寝て起きて糞垂れて
子は親となる 子は親となる」

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